父の通夜に参列の皆さんに配布したものです
創業者 後藤一男 ミニ物語
昭和2年2月8日、現在の地で農家後藤長太郎、ミチの長男として生まれる。当時の子供の数は一般的に7人8人と多く、一男は女4人男3人、5人目に待ちわびた始めての男子として育てられる。
農家の子供の役目といえば学業よりもむしろ弟や妹の世話と農作業の手伝いが優先、一男も小学校(市立第二)から帰ってくると毎日草取りをやっていた、そんな中で比較的進歩的考えの母ミチは、これからは自動車の時代を察したのか、一男に神田の専門学校に通わせたのである、当然身の程知らずと回りの風当たりはあまりよくなかったようだ。農家のセガレが東京の学校(当時の呼び名)に通うので、道に迷ったり電車を間違えたりが多かったようである。お弁当も周りは皆白いごはんで、自分の麦飯を見られるのがいやで蓋をしながら食べていた。そんな中母親が時々何処から手に入れたのか、白いご飯をお弁当にいれてあげたようだ。勉強もノートが買えなくて、チラシの裏を使い、黒いインクで書いたらその上から赤いインクを使い2度3度と使っていた。しかし人一倍努力家の一男の成績は常に上位にいたようである。終戦間近の時期は学校に通いながら畑仕事もこなす。中島飛行場に飛来したB29の焼夷弾を避けて防空壕に逃げたり、農作業中には艦載機の機銃掃射を受けて危ういところもあったようだ、そのときに弾に当たっていれば私も存在しないし後藤自動車もなかったであろう。昭和22年三鷹の野崎、箕輪家の2女てつ子と結婚、嫁いだときの最初の一男の印象を「振り向きもせず机に向かってもくもくと勉強していた」と語っている。茅葺の農家の夜は寒い、足が冷たいので100Wの電球を机の下につけて足を暖めながら勉強していたようである。戦後は勉強の成果を生かし農作業の傍らではあるが、納屋の片隅で鍬や釜、リヤカー、耕運機などの修理を細々とやっていた。電化され始めた周りの農家の井戸のモーター修理は結構多かったことを私もよく覚えている。街には次第にオート三輪などが走り始め、だんだん自動車の修理も来るようになってきた。そこで一男は電気が得意で車の電装関係専門、(有)後藤電機商会を昭和34年3月11日に創業したのである。当時はモーターやバッテリーもすべて手作り、部品を買いに母が5才の私を背負い秋葉原の鳥井電業にいったことは、子供心に覚えている。オートバイも多く、抜群の溶接の腕を持った一男の評判を聞きつけ、転んで曲がったフレームを直しにたくさんの「雷族」と言われたマニアが遠くから集まってきた、その中にその後のレーサー高橋国光氏もいたと聞いている。次第に4輪自動車の修理も多くなり市会議員選挙の時などは、夜8時を過ぎるとたくさんの候補者の宣伝カーが党派にかかわらず、スピーカー用の大きなバッテリーの充電をするために庭に集まった。毎晩まるでお祭りのような賑わいであった。母ミチが予言したように社会はモータリゼーションの波に乗り始め、街には乗用車が溢れ、後藤電機商会も少しは知られるようになり、タクシーやパトロールカーの修理も行うほどになってきた。都内のどこでタクシーに乗っても「後藤電機」というだけですぐに分かったのは私の自慢であった。地元の皆様に支えられ業績も順調に推移し、道路から引き込んだ場所にあった社屋が今の表通りに出てこられたのは、ご尽力を頂いた高橋遼吉様の御蔭と常に申しておりました。
(有)後藤電機商会も自動車修理専門とし、警視庁の指定工場、連続5回の東京都陸運局長表彰事業場を受けて陸運局長指定の民間車検場、ヤナセのLショップとなり、一男個人も自動車各関係の組合や振興会、地域の防犯協会、安全協会、また28年勤めた消防団から数々の感謝状や表彰状を頂いております。昭和60年3月には(有)後藤自動車に社名変更、平成3年の会長就任まで社長として指揮を執ってまいりました。会長就任後も社長の私や社員に「創業の心を忘れず、足元から着実に経営をすること」など、そのときは頑固な社長と聞き逃していた沢山の「言葉」が、今になってその意味が自然に分かってきました。
平成8年に胃の手術をしてからも会社のことが心配のようで日に一度は会社に来ておりました。この数年は体の自由もあまり利かず不自由な時間を過ごしてまいりましたが、私もできるだけ傍にいる時間を持つことができたと思っています。最後は家族皆と社員に見守られながら眠るように安らかに1月10日(78歳)永眠いたしました。これもご支援頂いた皆様の御蔭と感謝いたしております、本当にありがとうございました。
平成18年1月12日
株式会社 後藤自動車 代表取締役 後藤一敏