解説:水戸黄門はなぜ人気があるか
はじめに
最近のテレビ番組で、”水戸黄門”がやたらに放映されています。それも、西村晃黄門、里美浩太郎黄門などなど主役まで異なっている番組が日によっては複数放映されています。
本文
最近のテレビ番組を見て気がついたことですが、”水戸黄門”がやたらに放映されています。それも、西村晃黄門、里美浩太郎黄門などなど、主役が異なっているドラマが場合によっては、午後に1時間、夜に1時間と別々に放映されています。
なぜこんなに黄門様がお出ましになるかというと、それだけ多くの視聴者に支持されているからに決まっています。しかも、誰が主役でもいい、あの筋書きが快いというのが視聴者の本音ではないかと感じました。
もちろん、徳川御三家の一つである水戸家の当主であった人が、町人の姿をしてふらふら旅に出ることなどできるわけはありません。たとえできたにしても、行く先々で悪人を懲らしめ善人を励まして歩くなどということができるものではありません。
見ている人もそれは承知の上で、筋書きの快さのゆえに、時間があればついつい見てしまうということになるのでしょう。 ではなぜ筋書きが快いのでしょうか?
1.悪い商人と家老や代官が私欲のために善人を苦しめているのが暴かれる。
2.最後に「この紋所が目に入らぬか」と葵の紋章が入った印籠をかざすと全員が畏れ入り、必ず「めでたし、めでたし」で終わる。
3.黄門様が超能力でもあるように事件をかぎつけ、悪巧みを見抜き、助さん、格さんや風車の弥七などを使って事件を解決する。
要は”別次元の存在が、悪者を懲らし、善人を助けてくれる”ことへの憧れ、期待があり、ドラマの中でそれが満たされるので満足するということのようです。
それにしても、なぜそんなに根強い人気があるのでしょうか?実はそこに、究極の存在の写し絵を見ているからではないでしょうか?現実の世界ではもっともっと多様な要素がからみあっていて、単純にはいきません。それに、究極の存在とその働きは目に見えないのです。ドラマではそれを単純明快な筋書きで見せてくれます。
つまり、[原因と結果の定理]そのままに、悪い想いをもつ者はついに悪いことをし、いずれその報いを受けます。善い想いをもつ者は苦しい想いをしてもいずれ救われます。その中間に、基本的には素直な想いをもってはいるが、出来心で善い想いの人を苦しめている人がいます。この人も究極の存在(ここでは水戸黄門)が現れて勧善懲悪が実現されるとともに、改心して善い心の人になります。
”原因と結果の定理”はとても分かりやすい法則なのです。それが現実には分かりにくいのは、”原因”と”結果”が起こる時間の差が様々であることと、多くの事象の中で”原因”である事象と”結果”である事象を見分けるのが難しいのだと思われます。”水戸黄門”では、自分が悟るべき”原因と結果の定理”がとても理解しやすい形で示されているので、人々はドラマをみていて快いのだと考えられます。
まとめ
”水戸黄門”のドラマでは、悪者は悪いことをし、いずれその報いを受けます。善人は苦しい想いをしても、いずれ救われます。視聴者にとっては、”原因と結果の定理”を分かりやすく見せてくれるので、快く感じるのだと思われます。